谷口研究室の歴史
闇に葬られるべきの事実の数々(単に執筆者の気まぐれと暇つぶし、とも言う)
「谷口研の歴史1996年度」執筆委員会
主執筆者(諸悪の根元とも言われる):B4の某
代理執筆者(火に油を注いだとも言う):M1の某
執筆者(良心が残って心が痛むと言う):D1の某
1997年
- 3月25日
- 学部卒業式ならびに修士終了式が大阪市中央公会堂で行われる。その時間なんと30分!なんと簡潔な式だこと!その後、電気系の謝恩会が行われるが、開式の言葉だけで40分!!なんと・・・きっとこの恨み、じゃないや、言葉は記憶に残ることだろう。(・・・本当か?)
- 3月14日
- 西尾研究室(大阪大学 工学部 情報システム工学科 社会情報システム工学講座 情報ベース工学領域)にもこの様な歴史が存在するのを見つけてしまった.しかし、あちらはかなりおとなしく紳士的な歴史が綴られている・・・ここの研究室って一体・・・
- 3月3日
- 学位論文発表が行われ、市橋、斎藤、坂本の三名が発表.うち1名は発表30分前まで原稿を覚えていないという事実は知る人ぞ知る.なお同日、卒論&修論の完成及び発表の慰労を兼ねて打ち上げが濱口研究室と合同で行われた.・・・もっともこの慰労会(飲み会)は隠蔽するに値すると思われるため部外秘とする・・・
- 2月28日
- 修士論文発表が行われ、大塚、冨田の両名が発表.無事に終了する.
- 2月17日
- 夜未明からゲームに興じる人が増える.今日からゲーム週間になるのであろうか?加えて,突発的にスパゲティー大会(?)が行われた.(息抜きに主執筆者,記す.)
- 2月14日
- 今日はバレンタインデー.その日の朝,ふとした会話から博士課程在学中の
中野に子どもが生まれていたことがわかる.中野さんおめでとうございます.
イベントごとには目が無い学生等から無責任な名前の提案が多数飛び交う.
有力候補は ”っち” であった.
その由来は苗字が”なかの”である事から推測していただきたい.
(なお昨年の後半から「たまごっち」なるものが日本国内では大流行していた事を添えておく:主執筆者補足)
- 2月13日
- この研究室が開設された当初から懸案であった学生室の空調機の配管が行われる.事務に陳情してからすでに半年かかったわけである.(息抜きに主執筆者,記す)
- 2月3日
- 2月1日より当研究室の助手となられた鎌倉先生の歓迎会と今年1月6日に来られた
Jung先生の送別会を同時に行う.
内容はというと,当日床に絨毯をひいたばかりの部屋(ここも土足厳禁となる)で
節分という事で,濱口研技官の久保氏が(本人たっての希望で)鬼となって豆まき
をした後,巻寿司を食べた.たまたま濱口研に来られていたイギリス人の先生も
参加されたがきっと日本の習慣を誤解されたであろう.(なお,教授は鬼役の久保技官@濱口研は悪の権化であるとの説明を濱口研の研究生に行う.誤解は輪を広げたようだ.なお,この日から以後,4Fにも学生室の一部が移り,同時に助手,学生の一部が移動.:主執筆者補足)
- 2月1日
- 鎌倉に正式に辞令がおりる.本日付けより正式な助手となり、またメンバーが増えた.しかし、人数が増えたのにも関わらず騒々しくならないのは何故・・・(主執筆者記す)
- 1月25日
- Ghostscriptにはまる人間が続出.
以後この日は"Ghostscript記念日"と呼ばれる事となる.
- 1月11から15日
- 濱口研の研究室スキーに当研究室から桐原と斎藤が参加する.斎藤の滑りに感動した濱口研の濱野氏はそれ以来,斎藤の弟子となる.
- 1月上旬
- 谷口研の歴史の主執筆者が自分の卒業論文の完成が危うい事にようやく気づく.
そして「ローマは一日にしてならず」を痛感する.
- 1月6日
- 韓国Kunsan National UniversityよりHak Kee Jung先生が研究のため来られる.
学生が昼過ぎまでほとんど来ない事を知られた先生はあきれておられた.
- 1月1日
- めでたく年が明ける.斎藤は
お年玉をもらうかどうか悩みに悩む.けど結局もらう事にしたらしい.
(以後しばらく代理執筆者により歴史が記されることとなる.2月28日分から主執筆者復帰)
1996年
- 12月26日
- 研究室の大掃除が行われる。きれいに掃除したついでに学生部屋は「土足厳禁」(通称:土禁)になる。また掃除の合間には息抜き^H^H^Hメインイベントとして、前々から長い髪を誇っていたD1の断髪式(詳しくは
こちら
)
も行われ、終了すれば教授から試飲と称してワインの差し入れがあり、そのまま忘年会へと突入した。もっともこの忘年会の模様は多くを語るべきではないことは、みなさんご承知してくださることであろう。なお、この忘年会において正式に新しく「助手」が招聘されることも発表された。(この「助手」ってのが、濱口研の卒業者だったもんだから・・・)
- 12月25日
- 翌日(26日)が研究室大掃除であるにもかかわらず
今晩からスキーに行くという不届き者がいることが判明.
窓拭きをして行くようにいいつけるが,
実は彼が外へ出ている間に鍵をしめて閉じ込めようという計画.
彼はそれに見事に引っかかったが,
顔が笑っているのはなぜだろう.
(そんなもん、「やらせ」に決まってるぅ。「やらせ」はいかんよ、ってことで彼の写真はサイズを小さくした上に.jpgから.gifに変更だ!モザイクは掛けないけど。もっとも彼の掃除も中途半端で翌日の大掃除では文句を言われていた。噂をすればくしゃみの連発で雪崩が起きる -> 雪崩に飲み込まれる -> 怪我をする -> 桶屋が儲かる、と期待したのだが・・・:主執筆者補足)
- 11月14から16日
- とある学会で「琵琶湖ワークショップ」なるものが開催され、当研究室から3名が出席した、それも滋賀なのに2泊もして。初日、大変難しい話の後で懇親会があり寿司の前に陣取る。懇親会終了後、琵琶湖湖畔を散策。そこで「しのぶ」さんと「あつひろ」さんの邪魔をする。2日め、同研究室の中野の家を探すが、後に明らかとなるが全く方向違いの所をうろうろしていた。・・・何をしに行ったかは、今もって謎である。(というか、理解できないものであった。よくいえば、我々にはすぎた内容であった)大変有意義な3日・・・だったろうか・・・?
- 11月1日
- 今日は桐原の誕生日。んでもって新しく飛び級できた3回生の歓迎会が行われたが、主賓が桐原になったとかならないとか。詳細は割愛するが、次の日、研究室には麦焼酎の瓶が何故か2本あった・・・。(誰かが店でもらったらしい)これがいつ無くなるのだろうか。
- 10月15日
- 今日は守安@濱口研の誕生日。・・・だからどうだといわれても・・・
- 10月12日
- 今日、谷口先生の教授就任祝賀会が行われる。(正式に文部省から辞令が来てからだいぶ立つが、気にしない、気にしない。)OB、といっても谷口研は今年できたばかりなので濱口研のOBでかつ谷口先生に関係する方々が一同に会したわけである。会では谷口先生の学生時代のアルバイト(試験の予想問題集の作成。もちろんコピーは学校の・・・)や数々の悪事(?)、お酒に関する英雄伝(?)が暴露された。さて出てきた料理などは一瞬のうちになくなり(なくなる最大の要因は谷口研の今のメンバーという声もちらほら。)お寿司にいたっては開始わずか1分の命もつなぐことができず誰かの胃袋に姿を隠した。しかしビールなどはしこたまあって谷口先生の人柄を妙実に表しているといえよう。ちなみに卒業された年度が僕の生まれた年の方もいらっしゃったりして、つくづく時代を感じました。
なおこの盛大な会の様子はこちらに詳しく!
- 10月10日
- 今日ついにBSアンテナが付く!中川無線(日本橋)で購入。(安くしてくれたから少しコマーシャルが入っています。悪しからずご了承ください。)中川無線のおっちゃんありがとぉ!しかし、地上波は全く写らない。ちなみにこのテレビは今までビデオぐらいしか利用されておらず、邪魔もの扱いだった・・・。もっとも今でもその待遇はあまり変わらないけども。・・・地上波が見れるのはいつなのかなぁ?
- 10月9日
- 飛び級で3回生が一人配属され今日研究室登場!!!もっとも登場したとき学生部屋にいたのは4回生ばかりだったんだけど・・・
- 10月2日
- 以前にコーヒーポットをたたき割った前科1犯の人物が今度は更に急須をもたたき割る事件が発生。これで前科2犯となったわけである。そのおかげで、新しいマスコットが誕生した。(何かは秘密。谷口研に来ればわかります。)犯人は誰かって?そんなこと僕には書けませんよ、ええ。
- 9月7から9日
- 第57回応用物理学会学術講演会が行われ、7日に宇都宮、冨田が、8日に中野が、9日には桐原がそれぞれ発表する。(なおこの発表内容を公開しております。
こちらへ)
- 8月26から29日
- 博士前期課程の試験が行われる。当研究室から3名が受験。(内1名が神経性胃炎をおこし、なおかつ顔もひきつり大変おもろい顔になっていた(らしい)。)
- 7月22から26日
- 濱口研と合同で「夏旅行」へ行く。今年は、若狭であった。ちなみに出発日の22日は院試の願書提出日であり、当研究室の3人もちゃんと提出してから旅立つ。帰ってから届いていた「受験票」をみると3人の名前の「あいうえお順」に見事に1,2,3の受験番号を頂戴していた。
- 7月1日
- 文部省より谷口先生に辞令が交付され、「教授」に昇格される。これをもってはれて当研究室は「谷口研」を名乗ることとなる。
- 6月25日
- 谷口研(当時は通称)所属で研究をされていた梅田さん(@日立製作所)の研究もひとまず終了し、壮絶、じゃなくて、盛大な「送別会」が行われた。が、行われた場所が「大同門」であった為、肉を喰うは酒は飲むはの大変な「送別会」になってしまった。(毎度の事??)後日、「大同門」から「特別優待券」を送られたのは有名(?)である。
- 6月8日
- 桐原の連日に及ぶ徹夜のおかげをもって谷口研のホームページが立ち上げられ、今こうしてみなさんが見ているわけです。
- 6月1日
- 前日に完成した学生部屋に早速引っ越しをする。が、桐原の事前の努力もむなしく部屋の配置はかなり「テキトー」になってしまう。ちなみに谷口先生の引っ越しはこれ以前にあったのだが、相変わらず一部の荷物が濱口研に残っていたりもした、事は内緒(?)である。
- 5月31日
- 「5月の連休明けにはできますよ」という工事関係者の発言もどこへやら、学生部屋がやっと、とうとう、遂に完成する。
- 5月24日
- 「新歓」が行われる。詳細は語られるべきではないだろう・・・。
- 5月10日
- 濱口研究室に居座っていたが、濱口研究室の模様替えに伴い谷口研(当時は仮称)学生達は追い出される。が、たくましくも濱口研の「談話室」「コンピュータールーム」を不法(?)占拠し、しばらく嫌がらせのように濱口研に居座ることとなる。
- 4月16日
- 新たに4回生が3名(市橋、斎藤、坂本)が配属される。(が、相変わらず学生部屋がない。)
1995年
- ??
- しかし、部屋がないのでしばらくどうしようかと悩む。(悩んだ、かな?)
- ??
- 谷口先生(当時助教授)が新設される電子情報エネルギー工学講座の「量子デバイス工学講座」を担当されることとなった(らしい)。そして、当時は濱口研究室に在籍していた学生の数人が「新」谷口研(当時は通称)に配属される相談がなされた(らしい)。
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